八瀬の地は、奈良時代に起こった壬申の乱(じんしんのらん)の際、のちに天武天皇(てんむてんのう)となる大海人皇子(おおあまのおうじ)が背中に矢傷を負い、この地窯風呂で傷を癒したことから矢背、そして八瀬と呼ばれるようになったという伝説があります。
この庵は、明治から大正期の実業家で政治家としても活躍した田中源太郎が所有し、三条実美が「喜鶴亭」と命名しました。彼の死後、この年は京都電燈重役の個人別荘となり、建物と庭園が大正末期から昭和にかけて造営されました。
数寄屋造りの建物は中村外二が手がけ、自然を借景とした庭園は佐野藤右衛門一統によるとされています。京都電燈は現在の叡山電鉄や叡山ケーブルを開設しましたが、1942年設立の京福電気鉄道に引き継がれました。別荘も同じく京福電気鉄道の所有となり、高級料理旅館「喜鶴亭」として営業していましたが、のちに廃業することになります。